9章 

 友ちゃんと兄が生活の場として選んだのは江ノ電沿線。

 鎌倉の駅からだって歩いていけなくはないのだから、同じ海の近くでも以前友ちゃんが暮らしていた家よりはずっと我が家に近い。

 でも、海外からも個展の誘いがかかるようになっていた友ちゃんも、大学時代から取り組んでいた人形作りで食べていきたいもののなかなかそうはいかず、先輩の工房で手伝いをしていた兄も目一杯だったのだろう。

 母の具合が悪くなるまで、彼らが我が家にやってくるペースは年一、二度だった。そのうち一度は大晦日で、みんなでワイワイと新年を迎え挨拶を交わしてから彼らは初詣にいくため帰っていく。そのぐらいのつきあいなら、かえって楽しいぐらいで苦にはならない。

 もっとも、父や母は友ちゃんたちの誘いにのり鎌倉に何度も遊びにいっていたし、もっと関係を深めようとすればいくらでもできたわけだが、いきなり態度を変えるなんてやはりできなかった。

 女性としても魅力的だし芸術家としても注目を集めていた友ちゃん。そんな彼女が義姉となっても、うらやみ卑屈にならずにすんだのは、福祉の仕事に就いて天職にめぐりあえたと思っていたから。
 
 面接のとき、パン屋で働いていたとアピールしておきながら、相変わらずパン生地に異物が入るのではという不安が強く精神的に疲れそうなので、仕事を割りふられる段階で、紙パックからはがきをつくる作業の担当がいいと言いはり希望を通した。

 事務仕事に手間取りひとり最後に職場を出るときは、火の用心や戸締まりに三十分以上の時間をかけていた。

 それでも私は、中高時代の精神的に不安定なあの状態を見事に克服した自分だからできることがあると信じていた。

 いや、やっと自分の仕事に巡りあえたと天に感謝することもあるにはあったが、本当に自信があったのかといえばそうではなくて、自己嫌悪の塊である自分に一生懸命暗示をかけていただけだったのだろう。

 その証拠に、私は、職員のなかでひとりだけ運転免許を持っていないことが気になってたまらなかった。
 
 確かに、「山瀬さんは運転できないのにどうして職員になれたの?」と、きく通所者もいたぐらいで、私が勤めたような小さな施設では車が必需品だった。パンや手工品を売りにいくときも、みんなでレクリエーションにいくときも、バザー用品を集めにいくときも車。職員は五人しかいなかったのだから、全員運転できるならそれにこしたことはなかった。
 
 それでも、かなり不利になるとわかっていながら、面接の段階で運転だけはしたくないとはっきり言っていたのだから、私を一番責めていたのはやはり自分自身だったのだろう。

 例の強すぎる恐れを抱えた私にとって車は凶器で、運転して人を轢かない可能性はおそろしく低く思えた。だから、

 運転するということは、罪を犯し交通刑務所に入ることを決意するのに等しかったのだが、自分の恐れを認めたくない私は、働きはじめて二年半が経ったときに教習所に通い免許を取ろうと思いたった。

 教習所というと、「教官が恐くてさ」などという人がいるものだが、私にとっては自分以外に恐いものなどないのだから、彼らになんと言われようとさほど気にならなかった。

 もっとも、ともかくぶつけてはいけないと外に出てからもいきなりブレーキを踏むものだから、
「あなた、何しているんですか⁉︎
後ろのトラックとの間がこれしかありませんでしたよ」と、両手でわずかな隙間を作り青くなっている教官もいたし、彼らにとって私は恐ろしい存在だったのかもしれない。

 何はともあれ、教習生である間は、いざとなれば彼らがブレーキを踏んでくれるという安心感があったから、それほど緊張することもなく運転できた。

 しかし、約三ヶ月かけて免許をとってからの日々は思い出すのも辛いほど悲惨だった。

 同僚につきあってもらって何度職場の車で練習をしただろう。たぶん十回にもならないと思うが、何事もなく練習を終えられることのほうが余程奇跡に思えるのだから毎日毎日生きた心地がしなかった。

 結局、免許をとって一ヶ月もしないで運転をあきらめたのだが、あの判断は間違っていなかったと今は思っている。

 自分は事故を起こす、それが前提となってしまうがゆえの緊張の強さはものすごくて、運転席に座ると普通の精神状態を維持できない。そのうえ、恐れの強さ以上に認めたくないことだったが、瞬時に判断をくだし同時に車を操作していくということが、能力的に私には難しかったように思うから。

 仮免は一度でパス、卒検は二度目でパスといえばまぁまぁのようだが、教官はなかなか先に進めてくれなかったから規定の倍は講習を受けたし、卒検のあとで
「一応免許はあげるけどね、あんまり運転しないほうがいいよ。近所迷惑だからね」と、まで言われた。
 
 プロにしてみれば私が運転に不向きなのは一目瞭然だったのだろう。

 同僚に助手席に乗ってもらい練習したときも、車の多さにパニックとなり甲州街道でハンドルから両手を放し万歳をしてしまったり、曲がることばかりに気がいって直進車を無視して右折してしまったり。「大丈夫、大丈夫」と、言いながら隣からハンドルを握っていてくれたり、手をあげて直進車を制止しながら謝っていてくれたりした同僚も、さぞかし大変だったことだろう。

 ある職員から「ともかくひとりで運転してみろ」と、命令されて職場の周りを一周したのが、唯一、誰にも同乗してもらわない運転だったが、工事現場に止まったトラックとガードレールに二度ぶつけ、車を修理工場におくったあの日のことは、今思い出しても恐ろしい。

 「誰かと一緒なら運転できても、ひとりで走るのは難しいかもしれないな」事故の後始末をしてくれた同僚の言葉に同意して、もうやめようと決めたときは、二度と運転しなくていいように免許を返しにいこうと真剣に考えたほどだった。

 それでも、もともと期待されてはいなかったのだろう。

 私が悩むほど「免許とったんだから運転してよ」と、他の職員から要請されることはなかった。

 私は、もう一度、「私には私のできることがある」と自分自身に言いきかせた。

 しかし、代車を借りられたものの職場の車を修理工場におくってしまったことで、職員ミーティングの場でちくりちくりと責められたり、冷静さを失った状態で運転していた自分を思い出すたび、もしあの時、人を轢いていたらという恐怖でのたうちまわったり、そんな日々を送るうちに、私は以前の自分に戻れなくなってしまっていた。

 まるで表面をおおっていただけの薄っぺらい自信にぽっかりと穴が開いてしまったかのように、「大丈夫、大丈夫」という暗示の言葉がきかなくなり、些細なことで動揺し、人の批判がひどく気になる。

 三十歳になっていた私は、再び結婚退職を夢見るようになり、ある男性に的をしぼったが、それは、さらに感情の波を激しくするだけだった。

 大学時代の失恋と同じく、後からやってきた女性に彼の心が傾いていくのを目の当たりにしたときは、自分がカンカンという音に引きずられ踏み切りに入ってしまうのではないかと恐くなるほど打ちのめされた。

 世の中には彼女や友ちゃんのように明るくてきれいで自信にあふれ、何をやっても私よりうまくできる人もいるのに、どうして私は私なんかに生まれてきてしまったのだろう。

 私だって捨てたもんじゃない、私だってやればできる、そう言いきかせてきた自分の中からマグマのような怒りが噴きだしてきた。

 私は、私なんかに生まれてきたくなかった‼︎

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