12章 

 M女史のセッションを受けさせたほど激しかった感情の波は、三十一歳、三十二歳と徐々におさまっていったが、それが、友ちゃんが言ったように最も大変な時期を越えたからなのか、仕事を辞めることを決めたからなのかはわからない。

 小学校の高学年、あの厄介な病が発症してから、私はずっと、事実を受け入れまいと必死になってきた。頭の病なんて論外。強すぎる不安感も理不尽な恐れも、もしかしたら手放せるかもしれないと期待が持てるときだけは認めても、それ以外は肩に力を入れて押し殺し気づかぬふりを続けてきた。

 しかし、同じく認めたくなかった自己嫌悪の念が噴出し、暴れまくり、ようやく落ち着くまでの間に、病やその後遺症と思える症状もまた認めざるをえなくなっていた。

 常につきまとう緊張感も恐れも確かに普通ではなく、他の人には簡単なことが自分にはとても難しく思えてしまうのも事実。

 けれど、治療がいやだから歯医者に行かなかったのとはわけが違う。前世療法が成功したという以外、不安から真に解放されたという話などきいたことがなかったのだから。

 そう、治るものならとっくの昔に治療をはじめていた。一生付き合うしかないとあきらめていたから、甘えないためにもすべてを認めまいとしてきた。人並みに働きつづけるためにはそれしかなかったのだ。

 案の定、生きづらさを認めた私は、まずはともかく自分を休ませてあげたいと思った。

 母が脳梗塞を起こし救急車で病院に運ばれたのは、仕事を辞めたいという思いが日々膨らんでいく、そんな時だった。

 父はぽつりぽつりと続けていた編集の仕事をすべて辞めて、せっせせっせと病院に通っていたが、彼自身数ヶ月前にぎっくり腰をやり治療に通っていた身。

 これ幸いといえばひんしゅくをかうだろうが、兄と友ちゃんが母の病院の帰り我が家によったとき、私は、年が明け三月になったら仕事を辞めて彼女の面倒をみると切り出した。

  バブルが崩壊し、常に欠員を抱えていた福祉の職場にも求職者が集まってくるようになっていたときのこと。私のように何の資格も持たない者が仕事を辞めれば再び就職するのがいかに難しいか皆もわかっていたはず。

 しかし、母はリハビリで有名な病院に転院したものの、著しい回復は望めないとはっきり言われていたため誰も反対しなかった。

 こうして、三十二歳の春、私は五年勤めた福祉施設を退職した。

  台所を自分の城とし、私たちに、栄養バランスのいい美味しい物を食べさせることを生きがいとしていた母は、トイレも食事も自分ひとりではできなくなってしまったから、介護のための退職というのも嘘ではなかった。

 大学時代のボランティア活動と福祉施設で働いていた五年間のうちに、身体障害者の介助も経験していたから、思った以上に残務整理に時間がかかり、母が退院してから数週間負担をかけてしまった父にかわり、彼女の世話はほとんど私が引き受けるようにもなった。

 腰の治療のため接骨院に通いながら食事作りに精を出しはじめた父は、「いやー、綾が手伝ってくれるようになって助かった」と、兄に大袈裟だと思えるほどの電話をかけていたほど。親からだって必要としてもらえるのはうれしい。働いていないという後ろめたさがあるぶん、私はせっせと母の世話をし、数ヶ月はあっという間に過ぎた。

 しかし、彼女を車椅子に乗せ三人で盆踊り大会に出かけたとき、父から、
「なぁ、綾、父さんの腰もずいぶん良くなったし、息抜きにやりたいことがあるならやってみたらどうだ」と、言われ心が動いた。

 確かに、働きたくはないが社会との接点がほしくなってきている。

 結局、私は父にあまえ、友ちゃんのセッションで絵を描くことを勧められてからしばらく教室にも通っていた油絵を学ぶため、美術学校の夜間講座に週二日通いはじめた。

 働いていなくとも、夕方六時、講座がはじまるときにはそれなりの疲れがたまっていたし、生まれてはじめて木炭を手にし石膏像と向き合ったときには、他のことを選べばよかったと後悔したほど。だが、最初に描いた油絵を先生から少しほめられただけでころりと変わり、俄然やる気が起きてきた。

 でも、手の遅い私には週二日では講評までに満足のいくまで描ききることができない。

 結果、なんと私は、翌年四月、三年制の本科の夜間部に入学してしまった。
通院などもある昼間は母の介護をし、夕方からは週五日学校に通う日々のスタート。

 恋愛の対象となるような同年代の男性はいなかったし、先生が顔を出さない日は、二日制のときよりもずっと広くなった教室に最初の一時間ほどひとりきりなどという日もちょくちょくあった。

 でも、なつかしい油絵の具のにおいがする教室はとても居心地が良くて、ひとりカンバスに向かいながら、仕事のプレッシャーから解放された喜びをようやくかみしめたものだった。

 技術的には未熟でも、白いカンバスに油絵の具を重ねていくうちにあらわれてくるのは紛れもなく私の世界。どんな世界が出来上がるのか楽しみでたまらなかったし、制作の過程で、人のことばかり気にしてきた自分自身に力が戻ってくるようにも感じた。

 だが、私があれほど夢中になったのは、絵を描くことが好きだからというただそれだけの理由からではなかった。

  仕事のプレッシャーから解放された喜びをかみしめればかみしめるほど、再び働くことが恐くなる。最初のバイトで「あなたにお金はあげられない」と言われたように、いつも自分は何ひとつうまくできなかった。そう、人の命に関わるような大きなミスを起こさなかったことのほうが奇跡にちかい。再び働きはじめたら、今度こそ、取り返しのつかない失敗をしてしまう。

 例の恐れも手伝って、前向きに自分ができる仕事をさがそうという気になれない私は、なんと、絵で収入を得たいという無謀な夢を抱くようになっていた。何十年後かに公募展で賞のひとつもとりたいというならまだしも、学校を卒業するときにはお金を稼げる画家になっていたいなんて全く無茶な話。しかし、絵に夢中になってから観にいくようになった友ちゃんの絵が、どうしてあれほどの高値で売れていくのか、よくわからない私は、自分にも彼女のようになれる可能性があるように思えてしまったのだろう。

 毎日学校に通いはじめて間もなくのこと、母が脳梗塞を起こしてからまめに我が家に顔を出してくれるようになっていた友ちゃんから電話があった。

「綾ちゃん、私、前から一緒にいきたいと思っていたんだけど今度の日曜日、俊ちゃんにお母さん看てもらって、ふたりでマッサージ受けにいこうよ。気づいていないかもしれないけど身体に疲れもたまっているみたいだし、ともかく気持ちいいからさ」肩と首の凝りには少々困っていたものの相変わらず身体に無関心だった私にとっては突飛な話。

 しかし、絵に夢中の私は彼女から何かを盗み取りたいという意欲満々。
「うん、わかった」と、快く承知した。

  散々自分の話をしておきながら今さらなのだが、今回、私が書きたかったのは友ちゃんのこと。

  だから、詳しくは書かないが、もし、あの時、彼女の誘いを断っていたら、今ごろは無視しつづけた身体の反撃を受けていたかもしれないと思うほど。

 友ちゃんが連れていってくれたのは国家資格を持った人たちによるマッサージとは違っていたので、ボディーワークといわせてもらうが、私の担当として友ちゃんが指名してくれた白井さんという女性には、サイキックな力があった。

 ワーク後、エネルギー体の頭が肉体から右にずれてしまっていることと、左後頭部の後ろにエネルギーのブロックがあることを教えてくれた彼女は、

「特に肩から上の凝りがひどいけれども、身体の緊張と心の緊張はつながっているもの。他の人には私から勧めたりはしないけどあなたは特別。継続してボディーワークを受けたなら、人生変わっていくと思うわ」と、言い切った。

 自分の問題は身体ではなく精神で、恐れや緊張を押し殺すためにぐっと力をいれつづけていたために生じた肩の凝りをほぐしても、先に生じた不安が消えるとは思えない。けれど、人生が変わるとまで言われればよしという気にもなる。

 でも、大金を払って三日に一度のペースで七回のワークを受けると決めたが、それで身体の緊張のすべてをほぐしてもらえると思ったのはあまかった。

 その逆で、彼女のワークを受けるたびに、まるで居心地が悪くて逃げ出していた身体に再び押し込まれていくかのように、私は、自分の身体の状態がいかにひどいかに気づいていった。

 時には顔をしかめて痛みに耐えなければいけないこともあったから揉み返しも多少はあったのだろうが、友達に「首が埋もれている」と言われたほど緊張で常につりあがっていた肩は鉄の鎧でがっちり固められたよう。

 しかし、それ以上に驚いたのは頭の不快さだった。

 ボディーワークを受けるまで全く気づいていなかったのは、白井さんが言ったようにエネルギー体の頭が肉体の頭とずれていたことと関係していたのかどうかはわからない。

  だが、何はともあれ、私は七回のワークによって、自分の頭が、思考できてきたことさえ不思議に思えるほどの状態であることに気づいてしまった。

 まるで分厚い小さいヘルメットで締めつけられているような感じなのだが、最初は何が何だかさっぱりわからなかった。

 頭部の筋肉なんて意識したこともなかったから、そんなものあるのか? と、いう感じだったし、一番不快な後頭部を揉みほぐそうとしても頭蓋骨に邪魔されてどうにもできない。

 (一体、これは何なんだ?)疑問と溜め息はつきなかった。しかし、同時に、この頭の不快さが消えたら、白井さんが言っていたように自分も人生も変わるような気がして、さらに親の脛をかじろうともボディーワークに通いつづけようと決めたのだった。

 介護をするうちに自分が本当に愛してもらいたかったのは母だったのだと気づいたし、彼女について書きたいこともたくさんある。けれど、それはまたの機会にさせてもらうが、彼女が私にとって、どうでもいい存在ではなかったことだけはことわっておこう。

 風邪をこじらせた彼女が入院先の病院で亡くなったのは、福祉施設を辞めて四年と数ヶ月が過ぎたときのこと。
 まるで私が美術学校を卒業するのを待っていてくれたかのようだった。

 もちろん、友ちゃんのようにお金の稼げる画家にはなれなかったが、丸三年思う存分絵を描けただけで満足だった。母の葬儀が終わると経済的に支えてくれた家族に心の中で感謝し、さぁ、また働こうよと、自分に言いきかせた。

 しかし、四年の間、自分の将来のためにしてきたことといえば、絵描きを夢見ることのほかは、ボディーワークを受けつづけたことだけ。それも全く無駄だったわけではなく、何がどうなっているかわけもわからずともかく不快だった頭は、奥歯をぎゅっと噛みしめつづけてきたような顎の緊張だとか、塀から落ちて後頭部を地面にぶつけたときの痛みと恐怖だとか、斜視であり二度手術を受けた左目につながる筋肉の強張りだとか、具体的な問題を浮上させては少しずつ手放していった。

 でも、身体の緊張がまだまだ残っていたように、心の緊張も自覚できるほどほぐれてはいなかった。

 三十六歳、職歴として記載できるのは、福祉施設で働いた五年だけ。
 
 新卒者の就職さえ非常に難しかったとき。

 早々、正社員はあきらめアルバイトにしぼったが、完全に社会とずれてしまっていて、面接でとんちかんなことを言い、落とされたり、もう駄目だと家に閉じこもってしまったり。

 結局、働きだしたのは母が亡くなって半年後、救ってくれたのはまだ民営化するまえの郵便局だった。

 面接後、少々神経質そうな若い職員から、
「少し検討させてください」と、もっともなことを言われがっかりしたところに、たまたま副課長が通りかかり、
「皆と仲良くやっていただければ何も問題ないのではないですか」と、一言。

  時給は安いし労働時間は短い。それでも、私が出来る仕事などやっぱりどこにもないと失望しかけていただけにうれしかった。

 単純作業というのは、朝、仕事を教えた新人が帰りには自分より早くこなしているなどということも多々あるもの。それでも、不器用な人も不器用な人なりに、毎日の繰り返しの中で少しずつ早くなっているのを自覚できる。

 バレーボールにしろ仕事にしろ、日々の努力が積み重なっているという実感がなかなかもてなかった私にとっては、初めてといってもいいような経験。

 民営化から一年半が経つ今ではずいぶん変わったかもしれないが、郵便局のあの大らかさが心配性な私にはよかったのだろう。

 たかがバイト、されどバイト。私は、あっという間に、絵を忘れ郵便局の単純作業に一生懸命になっていた。

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