13章 

 女性タレントのエッセイ集の表紙に写真がつかわれたことも大きかったのだろう。亡くなった母が力を貸してくれているかのように、彼女の死後間もなく、兄の人形が急に注目を集めはじめた。

 元の所有者が友ちゃんの知人だったというし、一体いくら払ったのかさっぱりわからないのだが、バブル崩壊後、借りていた鎌倉の土地と家を買い取ったという兄夫婦。その話をきいたとき、ついふたりの前で
「友ちゃん様々だね」と、言ってしまったが、あれには、温和な兄もカチンときたことだろう。

 子供の頃、ミケランジェロのように大きな像をつくりたいと言っていた彼が人形作りに夢中になったのはまだ美大生のとき。大学や知人の工房でバイトをしながら、評価を受ける日がくるという保証など全くない人形作りを続けて約二十年。

 もっとも誰よりも彼の人形を愛していたのは友ちゃんで、彼女の応援があったからこそ続けられたのだろうが、普通の夫婦だったら、旦那さんが、自分よりずっと収入の多い奥さんに嫉妬したり卑屈になったりするものだろう。

 まぁ、あの夫婦に関してはよくわからないのだが、何はともあれ、兄の人形が注目されはじめたことは妹の私としてもうれしいことだった。

 恥ずかしくて兄に話してはいないが、バイトの面接に落ちて落ちて、ようやく受かりそうになるとやっぱり無理と自分から断ってしまう。そんなことを繰り返すうちに自信をなくし動けなくなっていたとき、私に力をくれたのは、デパートの個展会場に並んでいた彼の人形たちだった。

 友ちゃんの半具象の絵は今ひとつわからなくとも、喜びや生命力をぎゅっと凝縮したような兄の作品には見たとたんに涙があふれてくるほどの感動を受けた。

 兄だってこれほどの人形をつくれるようになるまで頑張ったんじゃないか。よし、私だって、それで挑んだ面接が郵便局のバイトというと世の人は情けないと思うのかもしれないが、まぁ、そんなことはどうでもいい。

 いつも心に余裕がなかったから嫌味もずいぶん言ったが、私は基本的に兄が好きだ。そして、自分自身も辛くなるから彼が悲しむようなことは起きてほしくなかった。

 だのに、あのデパートでの個展から十ヶ月後、彼にではなく、彼が愛する友ちゃんに普通の人だったら不幸とよぶだろう出来事が起きてしまった。

 すべてのことに意味があるという人もいるけれど、あの出来事だけはなんで? と、今も思ってしまうからさらりと書こう。

 全国各地をやれ作品展だ、やれ講演会だと飛び回っていた友ちゃんは以前からタクシーを使うことがよくあったのだろう。

 八月のあの日も、乗り換えのため降りた駅で、十分ちかく電車を待って知人の個展会場に一番近い駅までいくより、ここからタクシーに乗ってしまおうと判断したのだろう。

 暑かっただろうし、疲れてもいたに違いない。

 タクシーの後部座席に乗り込み、行き先を告げるとすぐに熟睡してしまい、友ちゃん自身は全く恐怖を味あわなかったことだけは不幸中の幸い。

 突然、目の前に大きなからすが舞い降りてきて驚いた前の車が急停止。友ちゃんの乗ったタクシーはぎりぎりのところで止まれたものの、後ろのワゴンがほとんどブレーキのきかない状態でぶつかってきたため押し出されて前にも激突。

 運転手さんも友ちゃんも命を落としてもおかしくないほどの大事故だったようだ。

 けれど、私が事故を知ったのは四日後。おまけに、兄の電話を受けた父からは、友ちゃんの乗ったタクシーが後ろからこつんとぶつけられ、おでこをぶつけたので、一応検査のため入院したときかされた。

 だから、バイトが休みだった翌日、夏風邪をひき咳がひどかったため、兄からもそんな状態で病院にきてはいけないと強く言われたという父に代わり友ちゃんの見舞いに行ったときもいたって軽い気持ちだった。

 運ばれた病院が同じ神奈川県だっただけでも幸いなのだろうが、兄夫婦の家からはかなり離れていたし、一時間以上かけて着いた駅は鎌倉と違って、あんなことでもなければ一生降りることがなかっただろう駅だった。

 駅前の短い商店街をぬけてしまうと人の姿はほとんど見えなくなり、この道で本当にいいのだろうかと不安を感じながら、暑さと蝉の音のなか、湯気が立つコンクリートの上を歩きつづけた。

 白い大きな病院が見えてきたときはうれしかったし、自動ドアを通り冷気につつまれたときは救われたと思った。
 病院特有のにおいが鼻につくこともなく、一階はホテルのロビーのようにきれいだった。

 ここなら忙しい友ちゃんがちょっと休憩するにもいい場所だろうと思いながら、面会者名簿の記載をすませ三階までエスカレーターで上がる。

 明るい廊下をちょっと歩くとメモしてきた病室の番号はすぐにみつかったし、その下に山瀬友という名前がひとつだけ書かれてもいた。

 けれど、すぐにノックできなかったのは閉まったドアに「面会謝絶」の紙が貼られていたから。

 おでこをこつんとぶつけただけの友ちゃんの部屋にどうして? いやな予感がして事実を確認するのが恐かったのかもしれない。私はしばらくその場に突っ立っていた。

 「どなたですか?」問いつめるような声にびっくりして振り返ると年配の看護師が眉をしかめて立っていた。

「妹です」

「妹さん?」全く似ていないわねと言っているようにきこえたので、あわてて

「義理の」と、付け加える。

「ああ、お兄さんの」それだったらと納得したのだろう。

「お兄さん、家に帰られたんだけど、もうすぐ戻ってらっしゃると思うわよ」と、笑顔まで見せて教えてくれた。

 そして、面会謝絶の紙など貼っていないかのようにトントントンと忙しいノックをしてから元気よくドアを開けた。

「山瀬さん、妹さんがいらしたわよ」廊下よりずっと暗い病室から返事はない。

 それでも、看護士さんは遠慮のない足音で中に入っていき、窓際に置かれていた椅子をベッドのわきに移動させ
「座ってらして」と、まだ入り口でもじもじしている私にむかってにぎやかな声で言った。

 足を踏み入れた病室は蒸し暑く感じたが、友ちゃんは、ひとつだけ置かれたベッドの上、毛布を顎の下までしっかりひきあげてピクリともしない。寝ているのだろうか? ベッドの横まで行き、顔を覗き込むと意外にも目が開いていた。いつものようにきらきらとした輝きはなかったが、その目は確かに天井を見ている。

 「友ちゃん」と、名前を呼んでみる。すると、彼女は首をひねり間違いなく私のことを見た。しかし、言葉を発することもなく再び天井に視線をもどしてしまった。えっ? 頭の中を疑問符が飛び交う。

 しかし、看護師さんは私たちのやりとりに全く気づかなかったのだろうか。
「座って、座って」と、のんきな声でもう一度、椅子をすすめてから、すたすたと出口の方に歩いていき、外に出るとピシャリとドアを閉めてしまった。ちょっと待ってよ、閉まったドアに向かい心の中でつぶやくが、再び開く気配はない。

 なぜだかはわからないが、私がいることに気づいていながら何も言ってくれない友ちゃんにしつこく声をかける気にはなれず、とりあえず椅子に腰をかけ彼女の様子を観察する。枕の上、長い髪がさらさらと動き頭が右肩の方に傾くが目は相変わらず天井をみつめている。額にはテープでガーゼがとめてあるし、けだるそうだが、他に大きな怪我をしている様子はない。

 彼女が私を無視している理由として考えられるのは、私に対して腹を立てていて、早く帰ってほしいと思っているということぐらい。そして、それは、(えー、どうして?)と、疑問に思うことではなく、過去の自分の行動を振り返ると納得できてしまうことだった。

 手紙の返事を出さなかったことにも、おばさんの見舞いにいかなかったことにも彼女は傷ついていた。それでも、兄や父がそばにいるところでは芝居を続けてきたが、精神的なショックを受け体調のすぐれぬ今、正直な気持ちがあらわれただけ。

 看護師さんだろうか。廊下から若い女性たちの笑い声が聞こえてきたが、通り過ぎてしまうと沈黙がさらにこたえる。

 父母も兄弟もいない友ちゃんにとっては、私だって貴重な身内のはずなのに、こんなときに何の力にもなれないなんて。

「帰ったほうがいい?」と、きく勇気もなく私は椅子に座りつづけていた。

「ねぇ」ふいに友ちゃんが口を開き、
「なに?」と、私は身を乗り出す。

「地下に売店があるんだけど、ジュース買ってきてくれない?」とてもゆっくりしたしゃべり方だったが声は怒っていない。ささやかなことでも彼女の役に立てるのがうれしくて私は声をはずませきいた。

「うん、何がいい?」

「果物だったら何でもいい」

「わかった」

「お金、机の引き出しに入っているから持っていって。綾ちゃんのも買ってね」

「いいよ、いいよ」ポシェットを肩にかけたままだった私は、廊下に出ると階段を地下まで駆け降りた。

「なんだ怒ってないじゃん、まぎらわしいなー」と、小声でつぶやきながらも顔がにやける。

 売店に着くと急に喉が渇いてきて、りんごとオレンジの紙パック入りのジュースをひとつずつ買った。

 病室にもどると、「有り難う」と言いながら友ちゃんはゆっくりと上半身を起こし、足を折り曲げベッドの上に正座した。起き上がった彼女は寝ているときより、ずっとしっかりしているように見えた。私は、彼女の顔の前に紙パックを二つ並べて、小さな子供同士のように
「どっちがいい」と聞いた。

「りんごがいいや」私が赤いパックを差し出すと、友ちゃんは右手を伸ばしかけたが途中でおろし、「ストローさしてくれる? 右手しびれていて、うまくさせそうにないや」と、言った。

「大丈夫?」

「うん、たいしたことないの」

  私は、ストローをさしてから彼女の左手にジュースを渡した。

 わざと明るさを落としているのか、カーテンを通して弱い日の光が差し込むだけの病室で、二人は向き合ってそれぞれのストローに口をつけた。自分が買ってきたジュースをこうして二人で飲めるというただそれだけのことがうれしくて、私は、目の前の友ちゃんを何気なくながめていた。

 しかし、次の瞬間、椅子から飛び上がるほどに驚いた。ジュースを一口飲んだ彼女が、音がするほど激しく震え上がったからだ。それは、寒さで身を震わせるなどというのとは明らかに違っていて、痙攣を起こしたのかと思ったほどだ。だが、その震えは長いものではなかった。静止した友ちゃんと私の間に、また沈黙が流れた。

 やがて彼女は、左手に握り締めていた紙パックをベッドのわきの台に置くと、両足を床に下ろしゆっくりと立ち上がった。そして、声をかけることも出来ないでいる私の前を通り過ぎ、ドアを開け廊下へと出て行った。どこに行くのだろうか? 恐る恐る後を追う。

 しかし、病室を出た彼女はどこに行くつもりもないようだった。彼女はただ前の廊下をふらふらと往復しはじめたのだ。上半身と頭を斜めに傾げて歩くその姿は、テレビのドラマで有名女優が熱演した精神病患者の姿とダブり、心がざわざわと乱れはじめる。それでも、私は、込み上げる不安を懸命に押さえながら、声をかけるタイミングを見つけようとしていた。

 だが、友ちゃんの顔がこちらを向いた瞬間、その場に凍り付いてしまった。視点の定まらぬ宙に浮いた目は、彼女がもうそこにはいないことを物語っていたから。

「あらどうしたの?」通りかかった若い看護士が友ちゃんに気づいて声をかけてきた。

「部屋わからなくなっちゃった?」看護士に驚いたふうはなく、その声はむしろ明るく響いた。

 背中を押されながら、彼女が病室に戻って行く。私は、看護師の部屋がわからなくなったという言葉も認めたくなかったが、それでもやはりほっとして二人の後に続いた。

 「どうした?」ドアを閉めるまえに、最初に声をかけてくれた年配の看護師も姿を現し、ふたりで寒いと訴える友ちゃんをベッドの上に寝かせ、もう一枚毛布を運んだりと甲斐甲斐しく世話をやいた。そして、友ちゃんが静かになるのを見届けると、二人揃ってまた病室から出ていってしまった。

 残された私は、再び口を閉ざしてしまった友ちゃんの横で、しばらく椅子に座っていた。しかし、もはや話しかけてくれることを期待出来ない彼女と二人でいるのに耐えられなくなり席を立ち病室を出た。

 友ちゃんと同じく行くあてはない、下を向きぶらぶら歩きはじめると
「綾」と、誰かが私の名を呼んだ。顔を上げると階段を駆け上ってきたのだろう兄が、紙袋を手に肩で息をしながら立っていた。

「ごめんな、家に帰ってきたんだ。友は寝ている?」

「うん」

「そうか、ちょっと待ってて」友ちゃんの病室のドアをそっと開けするりと中に入り、紙袋を置いてきてから兄は言う。

「一階の喫茶店でかき氷でも食べようか?」白い歯を見せて笑う彼はまだことの深刻さに気づいていない。そう思うと胸が苦しくなり

「お父さんも心配しているだろうから、もう帰る」と、断っていた。

「そうか」送ってくれるつもりなのだろう。兄は、背を向け上ってきたばかりの階段をゆっくりと下りはじめる。

 踊り場で足を止め、私を待ちながら兄が口を開く。
「連絡が遅くなってごめんな」友ちゃんが事故にあいすぐ電話をくれたものと思っていた私は、首を傾げ、続きを待つ。

 あせってたんだな。父さんや綾に知らせなくちゃと思って何度か電話したんだけどいつも留守でさ。友が前に住んでいたアパートの電話番号押しているのに気づいたのは、あいつの意識が四日目にやっと戻ってからなんだ」

「お父さんからは、たいした事故じゃなかったってきいたんだけど……」
「ああ」兄は踊り場にとどまったまま話をつづける。

「父さん、ひどい咳して電話に出ながら、友が交通事故にあったって言ったとたんに、『どこの病院だ?』って、今にも飛んできそうな勢いになっちゃってさ。この暑さだし、もう若くはないからさ、あまり刺激してもいけないと思って本当のこと言わなかったんだ。友、かなり強く頭を打っていて、このまま意識がもどらないこともあるって言われたんだ。」

 もどってくれ、もどってくれと祈りつづけたのだろう意識がもどったのだ。よかったね、と、言うべきだったのかもしれない。でも、私は、
「検査結果はどうだったの?」と、きいていた。

「今のところは何の問題もみつかっていない。でも、右手がしびれるみたいだし、何かしら後遺症がのこる可能性もあるって先生からも言われている」思い出したくなくとも友ちゃんのあの目が頭に浮かび、私は後遺症という言葉に打ちのめされる。

それでも兄は、
「今までのような絵を描くにはリハビリが必要になるかもしれないな」と、言いながら、軽い足取りで階段を下りていく。

 絵なんてどうでもいいよ。私は、彼の後ろ姿をみつめながらその言葉を飲み込んでいた。

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